障害児学級からの報告
=子どもは学びたがっている=
 

 今、「学級崩壊」という言葉がメディアで広がっている。学ぶことを放棄した子どもたちが授業を拒否し、学校生活そのものから逃げ出そうとしている。先日のNHK特集はその実態をリアルに報道していた。
 本当に、子どもたちは学ぶことから逃げ出そうとしているのだろうか……?
 「いや、子どもは変わっていない。むしろ、もっと切実に求めているんだ」

 私はそう言わずにおれない。以下、私の障害児学級からの報告である。

       不登校を回避したあかねちゃん(仮名)

@わらにもすがる思いで……

 私の担任する知的障害児学級に、4年生のあかねちゃんが入ってきたのは5月の末のことだった。それは、緊急避難というに近かった。
 学習面での落ち込みがひどいあかねちゃんは、3年生の頃から学級でも孤立しがちであり、不登校の可能性が心配されていた。
 4年生になっても、状況は変わらず、ずるずると休み始め、5月半ばには不登校状態になりかけていた。
 実は、あかねちゃんには二人の兄と姉がいて、その二人ともが完全な不登校状態にあった。
そんなあかねちゃんが、「なかよし学級でなら、勉強する。」と言い出した。友だちのまちこちゃんがいる、というのがその理由だったらしい。
 お母さんは、「とにかく学校へさえ行ってくれるなら。」と、わらをもつかむ思いで連れてこられた。それから、なかよし学級でのくらしが始まったのだった……。

Aこんなに明るい声を初めて聞いた!

 初めてあかねちゃんが来た日、私は不在だった。教務の先生が、教室にあったタイルとプリントで足し算の勉強を教えて下さったそうだ。その日、家に帰ったあかねちゃんは、「楽しかった!と今まで聞いたことのないようなはずんだ声でおばあちゃんに報告したという。

 なかよし学級での生活に慣れるのに2日とかからなかった。

 朝の会で歌を歌うのも誰よりも大きな明るい声で歌うし、学級の他の子たちにも「まりちゃん、上手に字かかはるなあ。」「えみちゃん、がんばってやるなあ。」とすごく素直な目で見、やさしい言葉をかけてやっているのだった。

 

Bできた自信が心を開いた!

 確かに学習面での遅れはひどく、苦手の算数は、くり上がりの足し算ができない状態だった。でも、タイルを使って水道方式の足し算をやるとスイスイできるので、「先生、プリントもっとちょうだい!」と学習することが楽しくてしかたがない様子だった。

 やがて、タイルの具体物から指タイルに移行し、数式だけのプリントでもできるようになってきた。初めてプリントが全問正解できたとき、あかねちゃんは、廊下を通っていた前担任の先生に「先生!私できるようになったんよ!」とプリントを持って走っていく姿が本当にかわいかった。

 4年生までできなかったことが1ヶ月ほどでできるようになったことが、あかねちゃんにはものすごい自信とやる気を引き出した。

 九九を楽しく覚えられるようにと「かけざん九九の歌」のテープをかけてやったら、「もういっぺん、かけて。」「もういっぺん、4の段かけて。」とこれも夢中になって練習する。

 音読の声は、本当に見事だった。漢字の習得が不十分でつまることはあるが、実にはりのある情感のある言葉で読めるのには、私自身びっくりしてしまった。

 障害児理解の授業であかねちゃんの在籍する学級に行ったとき、あかねちゃんが音読している場面をビデオを見てもらった。
「ぼくらの教室にいたときと全然ちがう。」
「先生があてやっても黙ってやったし、友だちにもちっちゃい声でしかしゃべららへんかった。」
なかよし学級で生き生きと学習するあかねちゃんの姿に、子どもたちはみんなびっくりしてしまった。 

 水泳も始まった。あかねちゃんは、まだ泳げない。今、ドル平で13mを目標に指導している。学級の他の三人にも指導しなくちゃいけないので、半分以上の時間は放ってあるのだが、その間も、一人で練習している。
 昨日、ビート板を使ってだが、25mを一人で泳ぎ切れた。
「泳げた!今日はお母さんにじまんできる!」
 私は、そんなあかねちゃんの姿を見ていると、「子どもが学習から逃げている」などという言葉がどうしても受け入れられなくなる。
 こどもって、みんな、あかねちゃんと同じなんだそう言わずにおれない。
 「できるようになりたい。」「わかるようになりたい。」と願い、それが達成されることで心も開かれ、前向きに進もうとする意欲も湧いてくるのだ。

 先日のNHK特集で、学校から逃げようとする中学生に家庭訪問を繰り返し、心のつながりを回復しようと努力されている先生たちの姿が報告されていた。自分の生活を犠牲にしても子どもに関わろうとしておられる先生方の努力には頭が下がる。
 けれど、やっとの思いで学校に引き戻しても、その学校生活自体が変わっていなければ、また逃げていくのは目に見えている。
 私たち教師が本当に全力を尽くすべきは、今の学校を一人ひとりの可能性を引き出し高める場にすることではないか。
 1日6時間もある、学校生活の大半を占める『授業』で子どもが生きられる場を創ることではないか。 そう主張し、実践し続けたのは今は亡き斎藤喜博だった。もういちど、今、私たちは斎藤喜博の仕事にもどって考えてもよいのではないだろうか。